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投稿者名:kid13

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ルネドカステラ

 

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ルネ・ド・カステラについて(1)

今年2023年に生誕150年を迎えたフランスの作曲家ルネ・ド・カステラ。それにちなんだ2回のコンサートを企画したわけですが、そもそもカステラって誰よ?という方がほとんどだと思うので、彼についてざっと説明します。

フランス音楽の中心的存在であるバスク・ランド地方の作曲家ルネ・ダヴザック・ド・カステラは、1873 年 4 月 3 日、フランス南西部ランド地方のダクスという町に生まれました。

ダクスで名ピアニスト、フランシス・プランテに注目された彼は、1891 年に 18 歳でパリ音楽院に進学しました。その後 1896 年に開校した音楽学校スコラ・カントルムの最初のクラスに入学しますが、その中には同じフランス南西部出身の作曲家セヴラックも含まれていて、彼とはすぐに深い友情が築かれました。

1898 年末、カタルーニャの有名なピアニストで作曲家のアルベニスがスコラ・カントルムのピアノコースの教授となりますが、そこでの最高の弟子はセヴラックとカステラでした。その後この 3 人は親友となります。

また 1899 年には、当時 15 歳の天才ピアニスト、ブランシュ・セルヴァがスコラ・カントルムに入学し、3 年後にはピアノコースの教授となります。カステラとセヴラックはアルベニスと同様に彼女とも親しい間柄となりました。またセルヴァが開いた音楽サロンにはカステラやセヴラックのほか、ダンディ、アルベニス、ルーセル、カントルーブなどが集まり、親密な時間を過ごしました。

カステラはコンサートホールや音楽サロンにも頻繁に訪れ、当時のほとんどの音楽家と出会い、頻繁に交流しました。すでに述べた音楽家以外にも、フォーレ、ラヴェル、ドビュッシー、ショーソン、デュカスなど多数に渡ります。さらにその後スコラ・カントルムの秘書となったときにはフランスのほか、ベルギー(イザイなど)、スペイン(グラナドスなど)の音楽家のほとんどと交流する機会を得ました。

1902 年、カステラは、多くの作曲家がより容易に作品を出版できるよう、「エディション・ミュチュエル」という出版社を設立しました。その結果彼と繋がりのある多くの作曲家が自らの作品をこの出版社から世に出すことができました。その中にはアルベニスの傑作『イベリア』もあります。

このようにカステラは当時のフランス音楽界を語る上で、欠くことのできない重要な人物です。

そんなカステラの作品の多くは、ランド県の実家で過ごした休暇中に作曲されました。今回演奏する作品もみなそうで、ランド地方とバスク地方の雰囲気を背景とした優雅なものばかりです。それらは彼がつきあった本当にたくさんの作曲家の作品とくらべても遜色はありません。

ぜひこの機会にお聞きいただきたいと思います。

*この内容はカステラの孫のアンヌさんによるバイオグラフィーをもとにまとめました。

加藤訓子コンサートレポート 2

加藤さんの演奏を聴くのは、お恥ずかしながら初めて。
80分休憩なし、こんなに長い時間マリンバのソロだけを聴いたのも初めて。
厳かなバッハから始まり、現代の都会の街の雑踏の中にいるようなライヒ、そして打ち込みのようなリズムの現代曲が続く。
CDで音だけを聴いていたら、おそらくデジタルの打ち込みの音楽だと思ってしまうかもしれない。
それを眼の前で、アスリートように筋肉の引き締まった奏者が、人の手によって生の音を奏でるのだから、目と耳と頭が若干混乱してくる。
だが、だんだんと引き込まれて夢中になる。
連続した音の永続性の中で徐々に意識が朦朧とし、こちらはすっかり身体の存在を忘れて、うっかりトランス状態に入りかけて自己喪失しかけてしまっているというのに、演奏は録音と合わせてピッタリと終わる。
一流の奏者には当たり前かもしれないけれど、その凄さに驚く。
そして聴き慣れた人にはこちらも当たり前のことだろうけれども、曲間や曲の途中にマレットを持ち替えると、その色や大きさにより、音色が異なることが初心者には面白く、子供心がワクワクしてしまう。
超低音のバッハなど、選曲も演奏も随分とビターで甘ったるいところが一切なく、嘘のない現実を突きつけられる厳しさと共に、何故だかそこに深く安堵する。
そして後半はホッと息をつける救いのある曲が並ぶ。
本当になんとよく練られ、考え抜かれたプログラムだろう。
それでもやはりそこにも嘘くささや甘ったるさは皆無。
演奏を聴きながら、加藤さんはご自分の音楽ににごく個人的な日常体験や感情を持ち込まない演奏家なのではないかと感じます。
だから卑小な「我」の音楽ではない、もっと大きく超越的な世界があり、そこに普遍性と説得力がある。
言葉や文化が違う相手にも伝わる、真実の音楽。
全ての演奏が終わり、素のお姿でご挨拶されると、演奏とはまた違う、明るく元気な、現代に生きる血の通った1人の人間の一面も垣間見え、そのギャップにちょっと驚いてしまう。
全曲通して、どこかグレゴリオ聖歌の響きの中にいるような、世俗的ではない心地の良さがあり、エストニアの教会での演奏を思い出されていたとのお話でした。
ご本人も仰っていましたが、80分があっという間に過ぎ去ってしまい、奏者も観客も、どこか別の場所に連れて行かれ、そこで精神を洗われて戻されるような、終わってしまうのは惜しいけれども、心も身体も晴れやかでさっぱり。
そんな80分でした。
嘘や誤魔化しのない容赦のない世界。
それは現実や日常から乖離したものであるからこそ、あるべき理想であり、誰もが目を背ける真実でもあります。
それを音楽で具現化したものを体験したと思います。
これもまた現代の祈りの音楽の一つなのかもしれません。
またぜひ第二弾もあることを!
文責:前原麗子(みのりの眼スタッフ)

加藤訓子コンサートレポート

加藤さんの演奏を聴くのは、お恥ずかしながら初めて。
80分休憩なし、こんなに長い時間マリンバのソロだけを聴いたのも初めて。
厳かなバッハから始まり、現代の都会の街の雑踏の中にいるようなライヒ、そして打ち込みのようなリズムの現代曲が続く。
CDで音だけを聴いていたら、おそらくデジタルの打ち込みの音楽だと思ってしまうかもしれない。
それを眼の前で、アスリートように筋肉の引き締まった奏者が、人の手によって生の音を奏でるのだから、目と耳と頭が若干混乱してくる。
だが、だんだんと引き込まれて夢中になる。
連続した音の永続性の中で徐々に意識が朦朧とし、こちらはすっかり身体の存在を忘れて、うっかりトランス状態に入りかけて自己喪失しかけてしまっているというのに、演奏は録音と合わせてピッタリと終わる。
一流の奏者には当たり前かもしれないけれど、その凄さに驚く。
そして聴き慣れた人にはこちらも当たり前のことだろうけれども、曲間や曲の途中にマレットを持ち替えると、その色や大きさにより、音色が異なることが初心者には面白く、子供心がワクワクしてしまう。
超低音のバッハなど、選曲も演奏も随分とビターで甘ったるいところが一切なく、嘘のない現実を突きつけられる厳しさと共に、何故だかそこに深く安堵する。
そして後半はホッと息をつける救いのある曲が並ぶ。
本当になんとよく練られ、考え抜かれたプログラムだろう。
それでもやはりそこにも嘘くささや甘ったるさは皆無。
演奏を聴きながら、加藤さんはご自分の音楽ににごく個人的な日常体験や感情を持ち込まない演奏家なのではないかと感じます。
だから卑小な「我」の音楽ではない、もっと大きく超越的な世界があり、そこに普遍性と説得力がある。
言葉や文化が違う相手にも伝わる、真実の音楽。
全ての演奏が終わり、素のお姿でご挨拶されると、演奏とはまた違う、明るく元気な、現代に生きる血の通った1人の人間の一面も垣間見え、そのギャップにちょっと驚いてしまう。
全曲通して、どこかグレゴリオ聖歌の響きの中にいるような、世俗的ではない心地の良さがあり、エストニアの教会での演奏を思い出されていたとのお話でした。
ご本人も仰っていましたが、80分があっという間に過ぎ去ってしまい、奏者も観客も、どこか別の場所に連れて行かれ、そこで精神を洗われて戻されるような、終わってしまうのは惜しいけれども、心も身体も晴れやかでさっぱり。
そんな80分でした。
嘘や誤魔化しのない容赦のない世界。
それは現実や日常から乖離したものであるからこそ、あるべき理想であり、誰もが目を背ける真実でもあります。
それを音楽で具現化したものを体験したと思います。
これもまた現代の祈りの音楽の一つなのかもしれません。
またぜひ第二弾もあることを!
文責:前原麗子(みのりの眼スタッフ)

○○コンサート

昨日、加藤訓子ソロリサイタルシリーズ vol.1「ライヒ〜ペルトの世界」は、ほぼ満席のお客さまをお迎えして無事終了しました。ありがとうございました♪
普通でも最高に美しくよく響くサルビアホールで、音響システムも駆使した加藤さんの演奏の良さが逆に損なわれることはないか、事前に少し心配もしたのですがそれはリハーサルの段階で既に杞憂に終わりました。さすがプロだなぁ!と大いに感動した次第です。
今回もまたたくさんのお客さまにいただいたアンケートも絶賛の嵐‼️
加藤さんの圧倒的なパフォーマンスを皆さん存分に楽しまれたようで、企画者としてもとてもうれしいです。
vol.2も楽しみにしていてください!
(なお添付の演奏風景はリハーサル時のものです。)
さて、スタッフの前原さんによるレポートです。
ご覧ください!
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加藤さんの演奏を聴くのは、お恥ずかしながら初めて。
80分休憩なし、こんなに長い時間マリンバのソロだけを聴いたのも初めて。
厳かなバッハから始まり、現代の都会の街の雑踏の中にいるようなライヒ、そして打ち込みのようなリズムの現代曲が続く。
CDで音だけを聴いていたら、おそらくデジタルの打ち込みの音楽だと思ってしまうかもしれない。
それを眼の前で、アスリートように筋肉の引き締まった奏者が、人の手によって生の音を奏でるのだから、目と耳と頭が若干混乱してくる。
だが、だんだんと引き込まれて夢中になる。
連続した音の永続性の中で徐々に意識が朦朧とし、こちらはすっかり身体の存在を忘れて、うっかりトランス状態に入りかけて自己喪失しかけてしまっているというのに、演奏は録音と合わせてピッタリと終わる。
一流の奏者には当たり前かもしれないけれど、その凄さに驚く。
そして聴き慣れた人にはこちらも当たり前のことだろうけれども、曲間や曲の途中にマレットを持ち替えると、その色や大きさにより、音色が異なることが初心者には面白く、子供心がワクワクしてしまう。
超低音のバッハなど、選曲も演奏も随分とビターで甘ったるいところが一切なく、嘘のない現実を突きつけられる厳しさと共に、何故だかそこに深く安堵する。
そして後半はホッと息をつける救いのある曲が並ぶ。
本当になんとよく練られ、考え抜かれたプログラムだろう。
それでもやはりそこにも嘘くささや甘ったるさは皆無。
演奏を聴きながら、加藤さんはご自分の音楽ににごく個人的な日常体験や感情を持ち込まない演奏家なのではないかと感じます。
だから卑小な「我」の音楽ではない、もっと大きく超越的な世界があり、そこに普遍性と説得力がある。
言葉や文化が違う相手にも伝わる、真実の音楽。
全ての演奏が終わり、素のお姿でご挨拶されると、演奏とはまた違う、明るく元気な、現代に生きる血の通った1人の人間の一面も垣間見え、そのギャップにちょっと驚いてしまう。
全曲通して、どこかグレゴリオ聖歌の響きの中にいるような、世俗的ではない心地の良さがあり、エストニアの教会での演奏を思い出されていたとのお話でした。
ご本人も仰っていましたが、80分があっという間に過ぎ去ってしまい、奏者も観客も、どこか別の場所に連れて行かれ、そこで精神を洗われて戻されるような、終わってしまうのは惜しいけれども、心も身体も晴れやかでさっぱり。
そんな80分でした。
嘘や誤魔化しのない容赦のない世界。
それは現実や日常から乖離したものであるからこそ、あるべき理想であり、誰もが目を背ける真実でもあります。
それを音楽で具現化したものを体験したと思います。
これもまた現代の祈りの音楽の一つなのかもしれません。
またぜひ第二弾もあることを!
文責:前原麗子(みのりの眼スタッフ)

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